2017年3月30日木曜日

増田光個展②

まさに工事現場まっ只中でした。
大工さんが電動ノコギリやドリルを響かせる横で、
インタビューをするぼく。
質問に答えてくれる増田光さん。


——今回の展示ではどんな作品が並ぶ予定ですか?

春なので、春っぽいもの。オーシャンぽい熊で。
光のあたる窓際とかに置けたらいいな、と。


——え?そんなスペシャルなかんじで作ってもらえるんですか?


いま浮輪をつけた熊を作ってますよ。


——あー…(完成品を見せてもらう)


















オーシャンにもうばっちりですね。
さっそく増田さんのことを教えてもらいたいんですけど、
陶芸家の生活ってどんなかんじなんですか?

わたし朝は弱いんですよ。
朝9時ぐらいから夜は7時ぐらいでやめるのが基本です。
だけど忙しいときはもっとやるし、
遊びに誘われれば遊びに行きますね(笑)。

常滑では制作に没頭して、
あるていどできたら展示に出します。
場所は関東が多いですけど全国行きます。
こないだは六本木、いまは浅草で展示してます。
少し前には沖縄に行きました。

——遡って、
増田さんの学生時代のことを教えてもらっていいですか?

高校までは横浜に住んでいました。
当時通っていた高校が変わっていて、
アメリカナイズされていたというか、
単位制で制服がなかったですね。

自主性を尊重されていました。、
自分で考えて行動することを大事にしていました。
けっこう実験的だったんです。
それがどうも日本人には合わなかったみたいで、
卒業したあと鬱病になっちゃった人がけっこういたんです。

他人は他人であるという考えで、
いざ社会に出てみると上司に楯突く人が続出したんです。
それで職場でうまくやれなくて病気になるという。
当時この学校は人気があって偏差値が高くなったんです。
各学校の頭の中いい子たちが入ってきました。

そういう学校を選んでくるぐらいなので、
思想が強い人も多かったです。
たとえば、自然環境やフェアトレードに興味をもって活動している人とか。
クラス単位での活動はほとんどなくて、
ドラマとかにあるようないじめとかグループではぶかれちゃう、
みたいなこととは無縁な環境でした。

私は面白そうだと思ってそこに決めました。
ふつうの県立は音楽か美術か書道か選択性で、
だけど、私はぜんぶやりたかったんです。

——陶芸家になりたいと思ったのはいつからですか?

美大ではじめて陶芸に触れてからですね。
高校から進学するとき、
私は大学は仕事につくために行く場所だと思い込んでいまして。
だから進学先を決めるときには仕事選びとイコールだったんです。

それで、私はものを作ることが好きだったので、
それなら美術大学かなと。
だけどやりたかった染色を学びたかった学校にいけず、
それならいろんなことに触れてみようと思い、
武蔵野美術大学で陶芸に出会いました。

大学時代に陶芸に触れてしっくりきました。
たとえば絵は感覚的でイメージ的なものですけど、
陶芸は具体的でリアルだと思うんです。
土をこねて、ロクロを引いて、窯で焼く。
こういう作業的なことを積み重ねて作るところが好きなんです。 

大学を卒業するときになって
「陶芸家がアシスタントを募集してるけどどうだ?」
と教授が声をかけてくれまして、
私は「行きます行きます」なんて軽く答えて(笑)。

そうしたらそこが常滑でした、22歳のときです。
街から地方に移ることに周りは心配してましたけど、
私は何を心配されているのか当時はよくわかっていなくて、
実際移り住んでから、
友達が1人もいなくなったので寂しかったです。

——下積み時代は何年続いたんですか?

アシスタントは4年続けました。
師匠の工房に通っていろんな仕事を手伝わせてもらいました。
展示会の準備、作って焼いて出荷すること、
作品の梱包の仕方、ギャラリーの人との付き合い方まで。

陶芸家という職業のほとんどを見せてもらった、というかんじです。
学生時代は1日に茶碗を3個作るのが精一杯!
みたいなところから、
工房では師匠が100個くらいバーっとロクロをひくのを
目の当たりにしたりというふうに。
















つづく。



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