2015年3月26日木曜日

アメリカピザ大会本番

バジルの神様はいました。
バジルの神様はゲイのゲーリーという60歳辺りで太り気味の銀行員です。
ゲーリーのおかげでぼくはイベント会場に辿り着くことができ、
そして彼のおかげでバジルも手に入れることができました。
しかしこの顛末は長くなるのでまたの機会に書ければと思います。

なにはともあれ、これでぼくは全ての材料を揃え、
あとは本番を待つだけとなりました。
大会は10時に開始して、
14番目のぼくは正午あたりの予定です。
順番待ちの間、観客席に座り見学しながら待つことにしました。

イメージトレーニングをしようと思うんですけど
こういうときは小さな欲求が色々と湧いてきます。
トイレに行っとかなきゃとか、
水が飲みたいとか、
靴下を脱いでリラックスしたいとか。

少し経ってからぼくは前日の昼から何も食べていないことを思い出しました。
忙しいせいか、
緊張のせいか、
空腹の回路がプッツリ切れてしまったように食欲がありません。

普段と異なる体の状態。
これは普段と異なる体の動きを招きそうだと思い、
リュックから冷たくなったエッグソーセージバーガーを出しました。
早朝にゲーリーがぼくの朝食にと買ってくれていたのです。
ぼくはこれを半分食べてまた紙に丸めてリュックに仕舞いました。

名前が呼ばれるとぼくはショー会場の裏手に回り、
生地や材料を準備します。
ダイソーで買った108円の小さな番重を持って、
審査員四人の前に立ち会釈をしました。
ほとんどの職人は生地が少なくとも9玉入る容器を持っています。
しかしぼくの番重には2玉しか入っていません。
ギリギリ3玉入ります。
みんな一体どうやってそんな大きな番重を運んできたのでしょうか。
ぼくのスーツケースにはダイソーの番重しか入らなかったというのに。

作業台に材料を並べます。
トマト、モツァレラ、バジル、オイル、塩、生地。
たったこれだけの材料を用意して運ぶのにどれだけ手間がかかったか。
競技以前に準備で消耗しました。

生地を番重から取り出すと、
ふっくらと気持ちの良い触感で指が埋まりました。
良い発酵具合です。
打粉をふった台でナポリ式の手延ばしを行います。
丸い生地を手であるていどまで広げて、
右手で押さえ左手で引っ張るという作業。
この作業で自分のリズム感を指し測ることができます。

普段オーシャンで出している生地は一玉180gですが、
今回はアメリカ仕様で250gで作りました。
この差は想像よりも大きく、
リズムを掴むに手こずりました。

薄く丸く広げてトッピングをはじめる。
トマトソースを先の尖ったスプーンでスパイラル状に塗る。
いつも使う丸いスプーンと尖ったものだとソースの広がる輪郭が違う。
バジルを千切りチーズをのせ、塩をまぶしオイルをかける。

使用される窯はガス窯で、
薪窯に比べると温度の上昇時間によりかかるようです。
競技スタート時点では火力が弱く、
序盤の職人はピッツァを焼き上げるのに時間がかかっていました。
本来の火力なら90秒前後のところ、2分を超えていました。

ぼくが窯に入れた時点では火力が強くなっており、
90秒近くで出せました。
皿に乗せて審査員の前に運ぶと各々のチェックがはじまる。
縁をつまんで底の焦げ具合を見る。
フォークでチーズを持ち上げ溶け具合を見る。
ナイフで縁を叩く人(これは意味が分からない)。

一通り見終わるとぼくは笑顔で会釈をする。
ドイツ人の上品そうな白髪のシェフが笑顔を返した。
作業台に戻って8当分にカットして審査員に渡したら、
作業台の片付けに入る。

片付けも採点範囲内なので手際よくきれいにする。
材料をトレイに載せ、小麦粉をはらい、消毒液の染みたクロスで拭き、最後に乾拭きをする。
ちらりと審査員を見るとスペイン人シェフのルシオという人は、
プラスチックの皿の上のピッツァを、
プラスチックのナイフとフォークで切ろうとしているが切れずに手こずっている。

ぼくは片付けを終えたら会釈をして、
「Thank you」と笑顔でいう。
またドイツ人だけが笑顔を返す。
ルシオはやっと食べれたのか、食べれずに引き上げさせたのか分からない。

以上です。
スコアは769点で30人中12位です。
けっこう平凡です。
だけど、まず喜ぶべきことを探すと、
真ん中よりも上ということでしょうか。
そして次にこの12位の上には本場ナポリ大会で優勝した職人が、
牧島さんを含め5人出場していました。
5位のトリノから美人の妻と来たサルヴァトーレ、
6位はLAにある〈Pizza90〉という店で長年職人をやっている白髪のフランチス。
どちらも尊敬できる職人でした。

その中で12位ですから。
いいですよね?
反省は多いですけど、去年の日本大会よりは良かったです。

本番が終わってからはナポリの小麦粉会社である
カプートのブースのお手伝いをしたり、
300ドル払ってワークショップに参加したりもしました。
またそのことも追って書きたいと思います。
バジルの神様ゲイのゲーリーについても。

スコア#1が味。
スコア#2が見た目。
スコア#3が焼き加減と清潔さ。
14番がぼく。




2015年3月25日水曜日

アメリカピザ大会の本番前日

ラスベガスに到着したのが23日の午前10時頃でした。
この日15時から〈Pizza Expo〉の事前説明会と、
生地作りを行う時間が与えられます。

ぼくはまず荷物を宿泊先に預けるために、
空港のシャトルバスでラスベガス・ホステルに向かいました。
同乗者がみんなサーカス・サーカスやマリオットなどの豪華なカジノホテルで降りていくなか、
シャトルバスにはぼく一人だけが残されました。

派手な街を抜けてダウンタウンまでいくと
安っぽいうらぶれたモーテルやホステルが並ぶ通りに変わっていきます。
ラスベガス・ホステルはフリモント通りの外れにありました。
この後にたまたま知り合ったラスベガス在住の人からは
「なんだってあんな悪い通りを選んだんだ!」
と言われましたけど、安かったのです。

大会参加者には特別値引きがされたホテルのリストがもらえますけど、
最低でも一泊100ドルかかります。
ラスベガスで“一番悪い”フリモント通りの四人部屋ホステルなら一泊30ドルです。
まあ、夜遊びもしないぼくにはゴロツキに襲われる危険性も少ないでしょう。

ここのホステルの冷蔵庫にカリフォルニアのコストコで買ってきた
水牛のモツァレラをしまい、
残りの足りない材料(バジルのみ!)を買いに外に出ました。
大会ではマルゲリータを作るために、
小麦粉、チーズ、トマト缶、オイル、酵母、塩を用意してきました。

酵母はホシノ天然酵母を持ってきていたので、
サンフランシスコで2日前に仕込んでリュックの手荷物で飛行機に乗りました。
液体は没収されるか心配でしたが、
約60ccと少ない量だったので大丈夫でした。

2時間昼のラスベガスを歩いて、
およそ10人の通行人に訪ねて2件のスーパーマーケットを見つけましたが、
バジルは売っていませんでした。
砂漠の上に作られたラスベガスで歩いて買い物をするということほど
非効率なこともありません。

ぼくは汗まみれになりながら
「もしかしたらラスベガスでは新鮮なバジルが貴重で少ないのかもしれない」
と途端に不安に駆られてきました。

もしバジルが無ければマルゲリータの採点もされません。
ここまで準備してきて「バジルが無くて失格になりました」
なんて結末はさすがに誰にも言えません。

とりあえず3時からの説明会に間に合うようにイベント会場に向かいました。
コンベンションセンターではすでに各ブースの出店準備で
人がごたついています。
ぼくが受付で競技参加者のカードをもらい、
説明会の会場に入ると順番に名前が呼ばれて
参加証を受け取っているところでした。
部門は五つです。

①アメリカ伝統
②パン・アメリカ(フライパンや鍋のパン)
③ノントラディショナル(創作)
④ナポレターナ
⑤グルテンフリー

計150人ほどの参加者です。
簡単なルールの説明が行われてから、
明日本番のための生地作りがはじまります。

作業場はショー会場の幕の裏側に設置されていて、
全員が一斉に小麦粉をこねはじめるので、
作業場の視界が若干白くなる気がしました。
気のせいかもしれないですけど。

材料はすべて自前で用意しなければなりませんが、
道具類は運営側が用意してくれるとのことでぼくは何も持ってきませんでした。
幸運なことにぼくは周りの人に貸してもらいながら作れましたけれど、
ボウルやスケールが無くて待たされている人もいました。

参加者はこう分類ができます。
第一にぼくのような個人参加、
そして第二にチーム参加があります。
チーム参加のほうが多いかもしれません。
圧倒的にチームのほうが効率がよくてはかどっています。
道具類やクーラーボックス、材料も豊富で、
ぼくのように一回切りの材料しか持ってきていないのに比べると安心感が違います。

生地作りをはじめて少し経つと声の大きい女性係員がきて
「冷蔵庫の鍵を締めるからあと5分以内にしまうものはしまって」
といいました。
ぼくの作業はまだ30分はかかりそうだったので、
常温で置いておくのもラスベガスの暑さでは発酵が心配で、
持って帰ることにしました。

まさかピザ生地の入った番重を持ってラスベガスの街を歩いたり
バスに乗ったりするとは思いませんでした。
この日結局バジルは手に入らず、
ぼくは悪夢が頭をよぎってまったく眠れませんでした。





2015年3月22日日曜日

スプラッタースクリーンの応用編

先日紹介したスプラッタースクリーンですけど、
今朝起きたらキッチンで応用編を目撃しました。

アメリカではベーコンをカリカリになるまで時間をかけて焼くのが好みだという人が多いです。
もしカリカリベーコン好きにとってスプラッタースクリーンの無い世界は、
人生のけっこうな時間をコンロ周りの油掃除で消費することになるでしょう。

まず、これがスプラッタースクリーンのあるキッチンです。
今まさに鍋の中ではベーコンが音を立てて油を跳ね散らしています。


ちなみにカリカリベーコンの作り方は、
まず薄めのベーコンを選ぶことです。厚切りベーコンではどれだけ焼いてもカリカリになりません。
薄いベーコンを中火にかけてじっくり焼きます。

あと、ベーコンの脂の量でカリカリになる時間が変わります。
今朝のベーコンは脂の少ないものだったので、
火にかけた時間はおよそ8から9分です。
たまにひっくり返しながら木べらなどで触っていると明らかに硬くなっていきます。
自らの油で素揚げされたような状態になり、
カリカリしていくのが分かります。
そして出来上がったベーコンを今度はスプラッタースクリーンの上に乗せます。

そして、これが応用編です
焼けたベーコンをすくって網にのせ、
油切りとして使う。


ハンバーガーやサンドイッチでよくあるBLT(ベーコンレタストマト)は、
このカリカリベーコンを使うのが鉄則です。

スクリーンスプラッター。
アメリカではそんなに古いアイテムではないそうです。
日本でどれだけ出回っているかと思ってAmazonで調べたら、
オイルスクリーンという名前でも出てきました。

2015年3月20日金曜日

便利グッズ収集

アメリカに到着して四日目になります。
〈Pizza Expo〉の準備はまだはじめていません。
何からはじめているかというと、
新居のキッチンツールの買い物からはじめています。

ぼくは厨房の便利グッズを買うのが趣味なのですけど、
アメリカはその手の厨房便利グッズの宝庫です。
ホームセンターや雑貨屋巡りは
毎回ぼくの旅行中の楽しみです。

日本では見たことのない道具に遭遇すると、
昆虫好きが珍しい虫を捕まえるように、
ぼくも珍しい便利グッズ類をつい収集してしまいます。

今回見つけたものはまずステンレス製の薄い網状の蓋です。
“Splatter Screen”という名前で訳すと、
跳ね散らかり防御網です。

ぼくは前々から餃子を焼いたりトマトや肉を炒めたりするときに
油がコンロの周りに飛び散るのが嫌でたまりませんでした。
対処法としてはアルコールを吹いてキッチンペーパーで拭き取るといった、「掃除」が唯一のぼくの手段でした。

ところがこの薄い網状の蓋は、
このわずらわしい「掃除」からぼくたちを解き放つ
抜本的解決をもたらしました。
この網状の蓋は団扇のように取手が付いていて、
丸いテニスラケットのような形をしています。

さあ、熱したフライパンに水分たっぷりのトマトを炒めます。
油を敷いて、スライスしたトマトを入れると、
バチバチバチバチバチバチーー!と、
かなり激しい音を立てます。

まくったシャツの腕は跳ね返り油で火傷しそうになり、
きれいなシャツには油の跳ね返りで斑点がつき、
コンロはまたたく間に油ギトギトまみれになる。

しかし、このみずみずしいトマトを投入した瞬間、
網状の蓋をフライパンにかぶせたらどうなるでしょう?
バチバチ激しい油のこの跳ね散らかり度合いに変化はありません。

が、跳ね散らかる油は網状のところで引っかかり、
水蒸気だけが逃げるようになっているのです。
ちなみに、もし普通のガラス蓋なんかで密閉させたら
どうなるか知らない人のために申し上げますと、
噴火かと思うような膨張が起きます。
蓋を押し上げ、油が鍋から溢れ出ます。
非常に危険です。

しかしこの5ドルのセール価格で買った薄い網状の蓋、
これさえあればもうそんな心配はないのです。
どんな水っ気の多い炒め物ももう怖くはありません。

便利グッズの買い物もひと段落して、
今週中にコンテストの準備をします。
競技で使う粉、チーズ、トマトなどの食材はすべて現地調達します。
普段とはまったくちがうピザができると思いますけど、
それも楽しみに材料探しに取りかかろうと思います。

2015年3月13日金曜日

タケノコ成長理論

来週から二週間アメリカに行ってきます。
その間〈石窯ピッツェリア・オーシャン〉はお休み、しません!
なんとぼくの師匠である長尾晃久ことアッキーが、
スペシャルメニューを用意して特別営業を行います。
詳しくはホームページのほうにアップしますのでご覧ください。

アメリカに行く目的の一つは家族に会いに行くことです。
カリフォルニアのサンタクルーズという海っぺたの小さな街です。
海っぺたの小さな街というところは寺部も同じです。
海の街から海の街へ行ってきます。
いつ行っても丁度良い気候で、
こんな過ごしやすい土地はなかなか無いと思います。

もう一つはラスベガスで行われる「Pizza Expo 2015」というイベントの
国際ピッツァ大会に出場してくることです。
ぼくにとっては去年日本で行われたナポリピッツァ職人選手権についで、
二度目の大会出場です。

このアメリカの「Pizza Expo」という大会には、
ピッツァ業界では有名な大須〈チェザリ〉の牧島さんも出場予定です。
牧島さんという人はナポリの大会で優勝して、
今では審査員もされていますし、
DVD付きの教本も出版しています。
ぼく自身もこの本からはかなり学ばせていただきました。

そんな横綱級の人ですから、
“同じ土俵で戦う”というイメージは捨てております。
それよりは落語みたいにトリと前座というイメージがいいかなと思ったんですけど、
これもやっぱりやめます。
落語の前座が面白かったという記憶はありませんからね。

それならフィギュアスケートというイメージはどうか。
若ければ華があるし、
ベテランであれば味がある。
うん、こういう、どっちにも点数が付くイメージがいいです、これですね。

オーシャンは幡豆という小さな港街にありますので、
世間の荒波に晒されることより、
強風による現実の波しぶきに店は晒されます。
鉄骨もすぐに錆びるし、ウッドデッキの劣化も早いです。

都市は景気次第で人の流れが変わりますけど、
港町は天気次第で人の流れが変わります。
オーシャンは雨だとヒマだし、天気が良ければ忙しいです。
こういう自然の影響をダイレクトに受けていると、
自然への感度は街にいるよりも敏感になる気がします。

だからこそ、
たまに世間の荒波に晒されたい気持ちになります。
料理は一人作業が多いので、
自己満足にも陥りやすいと思うのです。
そこでたまに大会のような大勢の前に出ると身の程が知れます。

こういう大会は年に一回ぐらいが丁度良いです。
じっと一人で一年ぐらい考えながらピザと取り組むと、
それなりに自分が作りたい理想形が見えてきます。
世間と孤独、ぼくはこれをタケノコ理論と名付けています。

平地で育つタケノコは斜面で育つタケノコよりも、
地上に早く出て太陽を浴びます。
それに対し斜面のタケノコはより長い時間地中に埋もれています。
平地のタケノコが陽の目を浴びすくすく伸びてスリム体型になる。
斜面のタケノコは背が伸びるよりも実が太くズングリ体型になる。

ぼくは、姿見た目はスリム体型になりたいですけど、
精神的にはズングリ体型でいきたいと思っております。
簡単にポキリと折れない仕事への揺るぎなさが欲しい。
そういう点において、
寺部という小さな街で人知れず仕事をしながら、
たまに人がたくさん集まる大会に参加することで
良いバランスが取れるんじゃないかという作戦です。

今日タケノコの初物を食べながらそんなタケノコ理論に思いを巡らしました。
美味しいですねータケノコ。
だけどちょっとタケノコの旬は短すぎです。

2015年3月7日土曜日

スマートで引越し

引越しをしました。
新居で三泊目ですけど荷物がまだ半分ほどしか運べていません。
幡豆から平坂町への引越しです。
時間的には三十分弱でしょうか。
引越し業者に頼むほどでもないと自分で運んでいるんですけど、
smartで引越しはするもんじゃないです。

「Micro Car Corporation」社のsmartはコンパクトカーだけあって
ほんとうに小さいです。
そこらの軽自動車よりもさらに小さい。
二人乗りで、荷台のトランクもスーツケースが一つ乗るていどです。

すでに四往復していますけど、
きっとハイエースみたいなワゴン車なら一回で済むと思います。
しかし始めたからには、
最後までsmartで貫徹したい、そんな意地みたいなものも出てきます。
smartでスマートとは言えない引越しをする。
ここにぼくはやりがいを感じてます。

ところで、素早い引越しがスマートかというとそうでもありません。
ぼくは今回で七回目の引越しですけど、
東京から西尾に戻ってくるとき引越し積荷時間は四時間で全て終えました。

ぼくが夜な夜な引越し作業を決行した前日のことです。
営業の仕事をしていたぼくは会社に仕事に行って、
通常通り午後七時に業務を終えて帰ろうとしました。
そこで上司であるマダラメ課長に呼び止められました。

「この会社はもう潰れる。
もしお前がこのまま残るなら、
部長はお前にサラ金で金を借りてきてほしい趣旨のことを言う。
なぜなら、お前以外にこの会社のほかの人間はみんな(七人)
もうすでにサラ金で目一杯借りていてこれ以上は無理だからだ。
どのみち、お前が借金をしてきたところで、
この会社は持ったとしても一、二ヶ月だ。
おれの言うことを信じろ。
明日、通常通り出勤しろ。挙動不審な態度はぜったいに見せるな。
そしていつも通り仕事を終えたらアパートに戻って、
その夜のうちに実家に帰れ」

ぼくはその通り実行しました。
基本的にぼくは、マダラメ課長の言うこと全てに従うことにしていました。
サラ金に行ってこいと言われたら限度額まで借りていたと思います。
だけどぼくはその代わりにジャパンレンタカーでワゴンを借りて、
北区王子のアパートの前に駐車し、夜の九時から積荷をはじめました。
掃き掃除までして深夜の一時に終わりました。
首都高から東名高速に乗って夜明け前に岡崎インターを下りました。
このときぼくの全財産は残り500円ほどになりました。
お金が足りなくなるのが怖くて、
晩ご飯を食べるためのサービスエリアにも寄れませんでした。
西尾の実家に着いたのが早朝五時頃です。
ぼくは休む間もなく荷物を全部降ろし、
また岡崎まで戻りジャパンレンタカーの支店で車を返しました。
ガソリンを満タンにするお金は母親に借りました。
何もかも終わって風呂から出たのが朝の八時です。
ぼくは明るい日差しが差し込んでいるはずの寝床に崩れ落ちると、
長い暗闇の中に沈みました。

今回のsmartによる引越しも一回きりでいいですけど、
この東京から実家へ戻ったときの引越しも二度と経験したくありません。