そら豆は食材としての存在以前に、
まず見た目が良い。
見ていて安心感がある。
角がないから、
知合いになっても裏切られる心配がなさそうです。
見ていても、頭の良いタイプというよりは、
ふくよかな布団にくるまって、
寝て待つタイプです。
小さな豆みたいにせかせかしていない。
大豆が大久保利通なら、
そら豆は西郷隆盛です。
大豆は野心家です。
豆腐になったり納豆になったり、
果ては豆乳になって牛乳の立場を脅かしたりします。
大豆はまず役職について、
そこから権威を振るおうとします。
そんな上昇志向な大豆に対して、
そら豆はいたってマイペースです。
鞘ごと炙られたり、
鞘からほじくり出されて油に放り込まれたり、
薄皮までめくられてすり潰されたりして、
どこまでも受身的な感じがあります。
役職につくこともとんと無関心で、
裸一貫で振る舞っています。
どうしても人に言われて嫌々役職につくことといったら、
そら豆のポタージュぐらいでしょうか。
でも、大豆が豆乳となって、
自分という存在を「乳」というイデアに収斂させていくのに対し、
そら豆はどんなに裏漉しされてスープにされようが、
自分のぼてっとした青々しさを残してしまいます。
オーシャンのご飯は虹色米として、
古代米を含めた七種類のお米を混ぜたものを使ってますけど、
炒り大豆もご飯の中に一緒にいれています。
よく考えたらおかしい話です。
なぜ一人、豆がお米の中にいるのか?
それも大豆が野心家であったことを思い出せば納得がいきます。
大豆は米の中枢に入りこんで主権を狙っているのです。
「いつかご飯と言われるものすべてを大豆に替えてやろう」
大豆にはそういう野望がある。
そら豆はどうか?
そら豆はどこに行っても目立ってしまう。
そら豆ご飯になっても、
かき揚げになっても、
パスタに入っても、
身体が大きいせいで目立ってしまう。
とは言っても、そら豆は何か主張しているわけではないので、
嫌われることはない。
その反対に頼られてしまう。
「お願い申すそら豆どん!」という感じで。
良いふうに転がれば問題ない。
親分に任しとけばあとは何とかしてくれる力がある。
でもあんまり前に出しすぎると、
「何か田舎っぽ〜い」ということになりかねない。
ここぞっていうときに活躍してもらって、
あとは寝てていただく。
そういう感じで今月はそら豆どんにお願いしようと思います。
まず見た目が良い。
見ていて安心感がある。
角がないから、
知合いになっても裏切られる心配がなさそうです。
見ていても、頭の良いタイプというよりは、
ふくよかな布団にくるまって、
寝て待つタイプです。
小さな豆みたいにせかせかしていない。
大豆が大久保利通なら、
そら豆は西郷隆盛です。
大豆は野心家です。
豆腐になったり納豆になったり、
果ては豆乳になって牛乳の立場を脅かしたりします。
大豆はまず役職について、
そこから権威を振るおうとします。
そんな上昇志向な大豆に対して、
そら豆はいたってマイペースです。
鞘ごと炙られたり、
鞘からほじくり出されて油に放り込まれたり、
薄皮までめくられてすり潰されたりして、
どこまでも受身的な感じがあります。
役職につくこともとんと無関心で、
裸一貫で振る舞っています。
どうしても人に言われて嫌々役職につくことといったら、
そら豆のポタージュぐらいでしょうか。
でも、大豆が豆乳となって、
自分という存在を「乳」というイデアに収斂させていくのに対し、
そら豆はどんなに裏漉しされてスープにされようが、
自分のぼてっとした青々しさを残してしまいます。
オーシャンのご飯は虹色米として、
古代米を含めた七種類のお米を混ぜたものを使ってますけど、
炒り大豆もご飯の中に一緒にいれています。
よく考えたらおかしい話です。
なぜ一人、豆がお米の中にいるのか?
それも大豆が野心家であったことを思い出せば納得がいきます。
大豆は米の中枢に入りこんで主権を狙っているのです。
「いつかご飯と言われるものすべてを大豆に替えてやろう」
大豆にはそういう野望がある。
そら豆はどうか?
そら豆はどこに行っても目立ってしまう。
そら豆ご飯になっても、
かき揚げになっても、
パスタに入っても、
身体が大きいせいで目立ってしまう。
とは言っても、そら豆は何か主張しているわけではないので、
嫌われることはない。
その反対に頼られてしまう。
「お願い申すそら豆どん!」という感じで。
良いふうに転がれば問題ない。
親分に任しとけばあとは何とかしてくれる力がある。
でもあんまり前に出しすぎると、
「何か田舎っぽ〜い」ということになりかねない。
ここぞっていうときに活躍してもらって、
あとは寝てていただく。
そういう感じで今月はそら豆どんにお願いしようと思います。
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