2013年6月3日月曜日

そら豆どん

先週からそら豆を収穫してます。
そら豆は食材としての存在以前に、
まず見た目が良い。
見ていて安心感がある。
角がないから、
知合いになっても裏切られる心配がなさそうです。

見ていても、頭の良いタイプというよりは、
ふくよかな布団にくるまって、
寝て待つタイプです。
小さな豆みたいにせかせかしていない。
大豆が大久保利通なら、
そら豆は西郷隆盛です。

大豆は野心家です。
豆腐になったり納豆になったり、
果ては豆乳になって牛乳の立場を脅かしたりします。
大豆はまず役職について、
そこから権威を振るおうとします。

そんな上昇志向な大豆に対して、
そら豆はいたってマイペースです。
鞘ごと炙られたり、
鞘からほじくり出されて油に放り込まれたり、
薄皮までめくられてすり潰されたりして、
どこまでも受身的な感じがあります。

役職につくこともとんと無関心で、
裸一貫で振る舞っています。
どうしても人に言われて嫌々役職につくことといったら、
そら豆のポタージュぐらいでしょうか。

でも、大豆が豆乳となって、
自分という存在を「乳」というイデアに収斂させていくのに対し、
そら豆はどんなに裏漉しされてスープにされようが、
自分のぼてっとした青々しさを残してしまいます。

オーシャンのご飯は虹色米として、
古代米を含めた七種類のお米を混ぜたものを使ってますけど、
炒り大豆もご飯の中に一緒にいれています。
よく考えたらおかしい話です。
なぜ一人、豆がお米の中にいるのか?

それも大豆が野心家であったことを思い出せば納得がいきます。
大豆は米の中枢に入りこんで主権を狙っているのです。
「いつかご飯と言われるものすべてを大豆に替えてやろう」
大豆にはそういう野望がある。

そら豆はどうか?
そら豆はどこに行っても目立ってしまう。
そら豆ご飯になっても、
かき揚げになっても、
パスタに入っても、
身体が大きいせいで目立ってしまう。

とは言っても、そら豆は何か主張しているわけではないので、
嫌われることはない。
その反対に頼られてしまう。
「お願い申すそら豆どん!」という感じで。

良いふうに転がれば問題ない。
親分に任しとけばあとは何とかしてくれる力がある。
でもあんまり前に出しすぎると、
「何か田舎っぽ〜い」ということになりかねない。

ここぞっていうときに活躍してもらって、
あとは寝てていただく。
そういう感じで今月はそら豆どんにお願いしようと思います。

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