2013年6月13日木曜日

三十路ブルー[下]

昨日は三十代が差し迫ってくると、
突然、何とも言えない悲しさに襲われることを書きました。
別に三十代じゃなくても「何とも言えない悲しさ」なんて、
どの年代の人にもたまにはあることでしょう。
でもそれだと僕がブログを書きにくくなるので、
一応それを〈三十代の壁〉ということにしておきました。

〈三十代の壁〉は突然進行方向を塞がれるという形でやってくる。
車で通勤しようといつもの道を走っていたら工事がはじまっていて、
強制的に迂回をしないといけなくなるように。
自分の望みとは関係なく、一言、
NOと手の平を差し出されて、諦めるしかなくなる。

その突然塞がれる感じは、
二十代の自分は可能性に満ちあふれていると見積もり過ぎたせいで、
クロスカウンターを受けるみたいなものなのか?
自分への期待による足払い。

服屋の中路さんの話しを聞いた帰り道、
僕もそれに近いものを感じていたことを思い出しました。
中路さんにとってそれは交通整備で迂回させられたときに、
突然やってきた悲しみでした。
僕にとってそれは夢でした。

その夢は目が覚めた途端、
「自分が望むことは努力すれば手に入れられる、それは嘘だ」
という救いのない夢でした。

でも、ただ悲しいだけなら、
今でもビビットに思い出せるほど胸に刻まれていないと思う。
悲しいことは忘れようという本能で
(僕はすぐに悲しかったことを忘れる)、
さっさと次のことを考えはじめてるんじゃないか。

この悲しさがお茶漬けのように胸に染みるのは、
諸行無常の鐘の音だからか?
この悲しさは、儚さのことなのか?
もしそうなら気分は何とも言えない気分だけど、
悪いばっかでもなさそうです。

〈三十代の壁〉というふうに、壁と言っているけど、
むしろ穴だったかもしれない。
今まで最終処分所のようなゴミ捨て場に捨てていた悲しさの深さを、
覗きにいくような悲しさが、儚さなのか?

突然塞がれた進行方向、
そのトラ柵の奥は、悲しさのゴミ捨て場だった。
という解釈でもいいですよね?

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