こないだからポール・セローの旅行記、
『ゴースト・トレインは東の星へ』を読んでます。
今は色んな本が読みかけになってます。
本を買うときは4、5冊まとめて買うので、
読みはじめても1冊ずつ終わるのががまんできずに、
ちょっと他の本の冒頭だけ読んでみようと思って手を出して、
結局どれも気になって全部をちょっとずつ読み進むことになります。
セローは冒頭でこう書いてます。
「旅人にとって、国家的危機はチャンスであり、
天の恵みである。よそ者にとって、
トラブルほどその国の真の姿を見せてくれるものはないからだ。
たとえ何がどう危機的なのか分からなくても
(実際わからないことが多い)、
とにかくその一日は盛り上がるし、
旅人は危機の生き証人となることができる。
確かにそのせいで煉獄の苦しみを味わわされることもあるが、
それでも祝日よりはましだ」
特にこの「それでも祝日よりはましだ」
ってとこがキマってます。
一体どんな煉獄の苦しみがあったんだろう、
冒頭にこんな言葉があったら先を読まずにはおられなくなります。
もう一つこういう文章もありました。
「もちろん家にとどまり、人には礼儀正しく、
逃げずに物事に立ち向かう方が難しいに決まっている。
しかし、そのどこに本の生まれる余地があるだろう?
それならばいっそ冒険家を気取ってほらを吹き、
大見得切ってみせる方がましではないだろうか」
また「まし」です。
セローのましだっていう言い方に、
ワクワクさせられるのは僕だけですか?
「お前に付き合って脂身たっぷりのステーキを食うより、
帰ってしなびた干物でも焼いたほうがましだぜ」
「壊れない新車買って快適に過ごせば、
何の不便もなしに生活できるに決まってる。
でも安全安心がなんだっていうんだ。
苦労とリスクは買ってでもしろって言葉にならったほうが、
まだましなんじゃねえか」
……どうも僕が言うとぜんぜんサマになりませんけど、
諦めと自分を知るっていうのが入り混じったような感じの、
「理想の選択」とは反対の、
「ましな選択」ができることは大事なんじゃないかと思いました。
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